防波堤

昧爽どきを通り抜けてたら

年の瀬

実家を出て8年、初めて帰省しない年末年始を過ごす。

東京にとどまるので、せっかくだから恋人と年越しをすることになった。おせちをあれこれ作る気力はないので、親にレシピを送ってもらって煮しめを作っている。コトコトと煮える鍋を見ながら、ビールを飲みつつ、ブログを書く。いつもの実家の味になるだろうかと不安になりながら、醤油色に染まり始めたれんこんを見てほっとする。きっと、恋人と過ごす年末年始は楽しいだろうな。

10月に週末を利用して帰省していたので、今の状況を考えるとあのタイミングで両親や祖母の顔を合わせられたのは本当に良かったなと思う。年が明けても劇的に状況が改善することは多分ないだろうけど。

日常になりつつある手洗いうがい、マスク、ソーシャルディスタンス、消毒、時短営業。「なんでもないようなことが幸せだったと思う」だよ。ほんと。だっさい曲だなと思ってたけど、今だとそのワンフレーズだけ妙に沁みる。クソ。こんな変化はいらない。

こんな状況を日常にしてしまいたくない。真夜中まで飲んだくれて、どうでもいいことでゲラゲラ笑えるような日常が普通だったことを忘れたくない。来年末にはそんな事もあったね、あのときは大変だったね、とまたへべれけになって笑いたいな。

着陸ルート

夏が終わり、秋が過ぎ、もう冬になる。家で仕事をする生活に飽き飽きしつつも、もう元の生活には戻れないくらい馴染んでしまった。春先の暇っぷりを考えるとありがたいほどに仕事の量は増えてきて、かなり忙しい日々を過ごしている。

部屋の断捨離と模様替えをした。こんなにモノを捨てたのは一人暮らし8年目にして初めて。3月から今までずっとローテーブルに座椅子で仕事をしていたのだけれど、ついに腰や肩、膝までもが悲鳴を上げ始めた。このままではいけない。在宅環境を整えるべく、まずは物を捨てなければと重くて痛い腰を上げた。

まずは服。45リットルのビニール9袋ぶんの服や靴を捨てた。これだけものを捨てたというのにまだまだクローゼットの中はパンパンで、逆に今までどうやって仕舞い込んでいたのだろうと考えてしまうほどだった。なんなら、まだあと2袋くらいは捨てられるのではないかと思っているが、来年の夏着るものが無くなる気がしてやめた。

家具もガラステーブル、スタンドミラー、ポールハンガー を処分した。これは自分で粗大ごみに出すことを考えたが、ガラステーブルをどう考えても階下のゴミ捨て場まで安全に運ぶ自信がなかったため、業者にお願いした。なかなか高くついたが、親切な業者だったためパッケージの範囲内でサービスすると言って、玄関に置いていた↑の断舎離した服のゴミ袋もついでにいくつか引き取ってくれた。

そして地味にかさばっていた本、CD、DVD。本当に取っておきたいものを除いて、すべてブックオフに引き取ってもらった。気に入って買った本との別れは惜しく、あれこれ読み返したりと時間を奪われる作業だった。とはいえ最近はほぼ電子書籍で本を読んでいるので、また読みたくなったら電子書籍で買うことにした。ほとんどお金にはならなかったものの、これも自分でゴミ捨て場に持っていくよりは随分手間が省けたのでよしとする。

空いたスペースにはデスクと椅子を追加した。1K6畳の定めかもしれないけれど随分と物が減らしたというのに、それだけで部屋はパンパンになった。ついでにベッドの位置も変えて、何度も何度も掃除機をかけて、ついでにコンロの周りや、ユニットバスの洗面台、洗濯機の下なんかも掃除して、季節外れの大掃除が終わった頃には、なんだか気持ちも軽くなっていた。新しい椅子に座り、正しい姿勢で仕事をするようになったら、随分と身体的疲労も楽になった。もっと早くやっておけばこんなに全身傷めることはなかったかもとは思ったが、過ぎてしまった時間は仕方ない。

目に入る景色も随分変わった。机の高さも、向きも全て変わったので、今は窓の外がよく見える。わが家の真上は羽田空港への着陸ルートにあるらしく、午後のあいだ、しばしば高度低めの飛行機が家の側を飛んでいく。大きなエンジン音が聞こえるたびに窓に目を向けて、目的地まであと少しの飛行機を見送っては、いい景色だなあとしみじみしている。

Drifter

自死を選ぶことについて考えれば考えるほど、自らも死に近づいてしまうのではと思う。衝撃的なニュースが好き放題に拡散されていく中、暗い気持ちに支配されながら過ごしていた。些細なことを鬱々と考え込んで、もし私がこの家で死ぬならドアノブにベルトをかけて首を吊るだろうなと思い至り、ゾッとして我に返った。思い至っただけで、別にこのまま死のうと思ったわけではないけど、自分の心が疲弊していることに気づいて、とりあえず身近な友人に電話をかけて他愛もない話をした。電話を切った頃には一杯飲みに行く元気も出てきて、近所のバーでまた他愛もない話を続けた。あーだこーだと三杯飲み終えた頃には、突発的な希死念慮みたいなものは、なんとか消え去っていた。

なにに絶望して、なにから逃げたくて死を選ぶかは誰にも理解できない。テレビの中のニュースが真実かどうかすら一視聴者には知る由もない。なにかなんてなくとも人は死ぬこともあるし。もちろんこの文章を書いて、今も生きている私は死を知らない。死にたいと思うことはあっても、それを実行に移すほどの勇気はない。まだまだ今生への未練も、悲しむ人の顔を思い浮かべる余裕を残してもいる。だけれど、未練や余裕がなくなるくらいの出来事って案外簡単に起こりうる。

6年前の夏、ある意味親以上に慕っていた福島在住の叔父が亡くなった。「何故か東京の病院で叔父が亡くなった」と聞いて、私は理解ができないまま、仕事を放り投げて病院に向かった。白い布を顔にかけられ横たわる叔父はただ寝ているみたいだった。その2週間前に会ったばかりで「来年は風とロック一緒に行こうよ」と話していた。触れるとまだ暖かく、頬でも抓れば起き上がりそうだった。しかし叩こうが喚こうがいつまでも目を開けることはなく、その肉体からは熱が失われて目の前の叔父はどんどん死人になっていくのであった。

叔父は無職で、癌で、アルコール依存症で、でも真面目で優しくて、おそらく欝だった。音楽が大好きで狭い部屋の中にCDとレコードをぎっしり詰めていた。福島に住んでいるはずだった叔父は、同居していた祖父母には何も告げず、夢の島公園で開催された夏フェスに来ていたようだった。少ない持ち物の中のレシートやチケットなどを頼りに推測した叔父の最後の行動は、フェスで好きな音楽を聞いて、帰りの新幹線のチケットを買ったものの、急にその楽しさが後ろめたくなって、帰るに帰れず、コンビニで買ったブラックニッカを一瓶飲み干して、そのまま熱中症で倒れた。そして駅の隅っこで昏睡しているところを駅員が気づいて搬送されたそうだ。一度意識を取り戻したので、東京の親戚に連絡が行ったけど、腎不全が進んでいて身内が駆けつけたときにはもう亡くなっていた。

もしかしたら好きな音楽を聞いて全てに満足してしまったのかもしれない、と自死を選んだ可能性が頭をよぎった。考えれば考えるほどずるい最後じゃないか。人生の最後に好きな人達がたくさん出るフェスを楽しんで、それで死ぬなんて、ずるい。やっぱり望んだ死ではなかったはずだ。楽しくなって「うっかり」飲みすぎて、クソダサく死んだ。私の中での真実はそうだ。

遺体と次に会ったときには、すっかり血の気のない姿になっていて、これは蝋人形かなにかで、叔父とは別物なんじゃないかと思った。お腹の部分にドライアイスが載せられて、頬に触れるとかちかちの氷のようだった。記憶の叔父の姿とは繋がらず、叔父の死に向き合えないまま、四十九日がすぎ、一回忌がすぎ、三回忌がすぎ。何度も弔いの儀式を重ねても、まだ、どっきりでしたなんて、ひょっこり出てくるんじゃないかと。でも時間の力は恐ろしくて、この悲しみは一生癒えないのではと思うくらい悲しかったはずなのに、今では文字に書き起こしたって別に泣きやしなくなった。

今でも叔父に話したいなと思うことがたくさんある。「ユニコーン新しいアルバム聞いた?」とか「最近仕事であの芸能人に会ったよ」とか、他愛もないことをだらだらと狭い部屋で喋りたい。叔父だけじゃなく、まだ他愛もないことを話していたい人はたくさんいる。私は死んでいないし、生きているし、まだまだどうでもいい話を延々としていたい。

人の死を理解するのはただでさえ難しい。憧れを持って見ていた人が居なくなってしまったというのは、画面越しだとしてもやっぱり難しい。今も彼女がだれかと笑って話をしていることを望んでいるけど、そもそも彼女がどんなふうに誰かと笑っていたかも画面の中のこと以外知らないのに。

そう思うと、目の前の生を全うしたいとも思う。ましてはうっかり死ぬなんて本当に最悪だし、長々生きて、どうでもいい話を何回も何回も繰り返して、しわしわのよぼよぼになって死にたい。

亡くなる数週間前に叔父と話したこと。叔父は珍しくシラフで、部屋の中のCDやらDVDやらのコレクションを私に見せながら、最近この曲がかっこいいだとかだらだらと話をしていた。そんなときiPadYoutubeを開いて「コレを聞いていると俺はバカみたいに泣ける」とKIRINJIのDrifterを聴かせてくれた。そのときの部屋の匂いまで鮮明に思い出せるくらい鮮明に覚えているし、このことだけは叔父の声や顔を思い出せなくなっても忘れない。

海を見ることのない夏

今年の夏は実家に帰らない、と選択したのはお盆の直前で。一人暮らしを始めてから毎年毎年なんだかんだと盆と正月は家族に会っていたので不思議な感じ。オンライン帰省みたいな儀式も済ませた。画面の向こうで柔らかい表情をしている父親に、複雑な気持ちになる。そんな表情は孫にでも向けてくれ。まあ少なくとも今のところ私にはそんな予定はないし、それに関しては正しい矛先を産み出せずに申し訳ないが。

ずっと家にいると近所の人間の生活模様を、少しずつ覗き見ることになる。例えば隣の部屋の住人は平日が休みで、火曜の夕方になると掃除機をかけて料理を準備する。しばらくすると彼氏だろう男の人の声が聞こえてきて、水曜の夜まで楽しそうに過ごす。お向かいのアパートの一室は服飾を生業としている人がアトリエとして使っているようで、作りかけの珍妙な服が窓辺に飾られている。たぶん私の生活も隣人や、近所の人達に少しずつ漏れていて。遅い時間に電子レンジを使うとか、バラエティを見ながらつい笑い声を上げてしまうとか、それ以外にもいろいろ知られているんだろうなと思う。相手の名前も顔も知らないのに、長く家にいるというだけでお互いのことを少しわかったような気になる。田舎ではよくある、ご近所付き合いの煩わしさとかはそういうところから生まれてくるのかな。

最近はよく近所を散歩するようになった。おかげで、改めて自分の家の周りの地名や位置関係なんかを知ることになった。この街にはもう5年も住んでいるのに、家と駅の往復では一生気づかなかったこと多くて得をした気持ちになる。

そういえばこの間は明るい夜道でハクビシンとすれ違った。じろじろと視線を向ける人間を気にもとめない様子で堂々と歩道を歩き、真横ぎりぎりを通り過ぎていった。おかしな夏だけど、悪いことばかりじゃない。

 

去り際

15センチくらい髪を切った。シャンプーのプッシュ数とか、ドライヤーの時間とか、気分だけじゃなくて、生活からも何グラムか差し引かれる。食生活が狂っていく以外は4、5月と変わらない生活を送っている。反省。軽やかになった髪に反して身体は重い。なんてことだ。

今までとは違う仕事をしたり、退屈を持て余したり。とにかく思考を巡らせる時間がある。雑事や睡眠などに時間を奪われても、尚あまりある時間。節制や理性を重んじて生活しているぶん、尚更開放する場所を求めてしまうのかもと思う。それは友人や家族、恋人だったとしても変わらずに。

先日半年ほど付き合った恋人と別れることになった。理由はいろいろ。私にも恋人にも思うところがあったはず。だけどこれは全部コロナのせいだ。その方がいっそ傷つかないし。ここ数ヶ月で積み重なっていった不和に、少なからず影響があったのは確かだし。

「別れよう」と発していたのは私の方だった。最良の選択だったかはわからないけど、いま選ばなくたって、いずれそうなっていたと思う。私がもっと優しい人間だったら、とも思うけれど。そこそこいい年齢の大人同士が、双方感情を表に出すのが下手くそで、いろんな綻びを修復しようとしなかった。私は私で、わかってもらえないならもういいや、と思ってしまった。遅かれ早かれ一緒にはいられなかっただろうな。

今日も家に引きこもって、数グラムの軽さを感じている。これはコロナのせい、と言いつつ要は自分の身軽さを選んだわけで。相変わらず人に優しくない自分に嫌気が差しつつ、今日も自分ばかり甘やかしている。

メタモルフォーゼ

週末、友人ととしまえんに行った。

もうすぐ閉園してしまうというニュースの直後だったのと、梅雨の間の晴れ間だったこともあって、以前訪れたときよりも幾分賑わっていた。あじさい園を観て回って、絶叫系のアトラクションやらゴーカートで遊び、メリーゴーランドのエル・ドラドに乗って閉園を惜しんだ。惜しむと言っても初めてとしまえんに訪れたのは半年ほど前。としまえんのプールが有名なことは知っていたけれど。

クリスマスに恋人とイルミネーションを見に行ったのだ。天気も悪いし寒くて、なんというか思い出すと散々だったなと思う。乗り物に並ばず何度だって乗れてしまう。「この天気じゃそうなるよね。でもラッキーだ」と張り切りつつ、とはいえジェットコースターを何周もするほど寒さに強くない私達はすぐに建物の中に入って、暇つぶしにプリクラを撮った。当初の意気込みはどこへやら、気がつくとガラガラのフードコートでホットスナックを食べていた。一緒にビールを頼んだけれど、冷えた身体にはちっとも染み入らず。最後は土砂降りに見舞われて。でも、それはそれで楽しかった。

ここ数日、青い空よりも薄曇りを見上げることが多くなった。服を重ねる枚数は減って、それでも相変わらず私は在宅で仕事をしている。元来家にこもることは好きなので、この生活がやっぱり心地よい。朝時間に急かされることなく、通勤電車に乗らずに済むというのはほんとうに楽だ。

少しずつ日常が戻ってきたり、変化したものを受け入れるようになったり。なにもかも今までのままなんてきっともうないんだろうけど。上京してからは特に、自分を取り巻く環境が短いスパンで変わることに慣れていた。

変化が全世界に及ぶというのはなかなか初めての出来事だけれど、私個人にとっての変化としては、そんなのいままで何度も繰り返してきたし。ゆったり構えておくしかないね。あんまり深く考えすぎないようにしないとね。この変化だっていつのまにか過去のものになるのだから。

 

生活

早2ヶ月、在宅で仕事をしている。

毎日通勤をしていたときのことが嘘みたいだ。会社の迅速な対応には心底感謝している。3月1日には会社用のiMacを家に運ぶ許可が降りて、在宅ワークを始めることになった。最初は試行錯誤の連続だったし、家にいても仕事のことを考えてしまって落ち着かなかったけれど、今ではすっかりこの生活にも慣れてしまっている。

毎朝10時の始業ギリギリに起きて、作業開始の報告を布団の中で打つ。かろうじてメールやSlackだけはチェックしながら、お湯を沸かし、顔を洗って、服を着替えて......結局いつも仕事をし始めるのは11時くらい。良くないこととは理解しつつも、一応裁量労働制だしな......と言い訳しながらついついのんびりやってしまう。在宅でもなんら支障のない職業だと思っていたが、業務量はコロナ禍でずいぶん減った。おかげと言っては難だけれど、昼休憩もきっちり1時間取れるし、定時には作業終了のメッセージを打っている。こんなんじゃ体内時計が狂うかもと思っていたけれど、意外と8時間の睡眠は確保出来ているし休日でも午前中には起きている。

この街には住んで5年になるけれど、最近ようやく昼間の景色を知った気がする。向かいの家の視線が気になってあまり開けることがなかったカーテンを、思い切って全開にしている。寝ぼけ眼に差し込む光が痛いくらい。

数日に一回、住宅街を歩いて人の少なそうなスーパーにいく。エコバックいっぱいに食品類を買って、ついでに馴染みの店のテイクアウトを買ったりもする。家のそばには緑道があって、近隣の人が世話をしている花壇がある。パンジーやチューリップ、今の季節ならではの花々が咲き乱れている。おそらく季節ごとに植え替えているだろうその花壇のことを、この春ようやく認識した。ベランダに置きっぱなしにしていた多肉植物の世話をしたり、豆苗を育ててみたりもしている。

毎日の食事はUber eatsに頼るときもあるけれど。野菜不足ならない程度に作って食べて片付けて。最近晩酌のためにグリーンラベルの24本入りケースを買ってしまったことは少しだけ反省している。さすがに1日2本までの制約を自分にかけているが、それでも多く飲んでしまった次の日は禁酒する。

書いてみると、今までよりもよっぽどまともな生活なような気もしてきた。大学を卒業して社会人になってから、一番人間らしい生活を送っているかもしれない。そこまで苦にせずやってきたけど、この生活に慣れてしまうと今より3時間は早く起きて日付が変わる頃に家に帰ってくるような日々がいつか戻ってくると思うと少し怖いな。

ずっとこの生活がいいかというとやっぱりそうは思えないけれど。得たものも多いけど失われたものはもっと多い。恋人とのんびり過ごしたいし(もう3週間も会えていない)、たわいもない話をしながら美味しいごはんを食べたい。本屋をあてもなくぐるぐる回りたいし、天気の良い休日はレジャーシートをもって公園にでも出掛けたい。週末の仕事終わりには顔馴染みの常連ばっかりが座るカウンターで、朝日を見るまで飲みたい。

お腹の底が重たい。日常だったことが簡単に出来ないこととなってしまった状況では、あらゆることが実現に移せない夢のままでとてももどかしい。ニュース番組やTwitterの情報を観ながら、怒りや悲しみを感じつつ。雨が降った日には理由なく落ち込んでしまう。そうでなくてもふと悲しくなって、そういうときはさっさとお布団に入って不安を抱え込むように眠る。

ただこの未曾有の事態の収拾がいつになるのか、専門家の人ですら断言出来ない今の状況で、自分が考えたってもちろんわかるはずもなく。

正直Twitterの140字以内の記録すら毎日続かないくらい文章を書かないし、飽き性なのでこの先何度更新するかもわからないけれど。それでもせめて今こんなことがあった、という記録を書き留めておこうと思い、唐突に行動へ移してみた。今の寂しさがいつかなにかの糧になりますようにという祈りを込めて、このブログ最初の投稿にしようと思う。